怨念みたいなもの

 Twitter と連携すると、どうでもいいようなエントリーが増えますね。自分のTweetがどうでもいい話であふれているということなんだけども。

 で、Blog「関内関外日記」の人気エントリ「だから、もっと人殺しの顔をしろ」の話なんですが、面白いエントリであることには違いないです。どちらかといえば、ダウナー系のエントリなんですが、私はこれに大藪春彦の処女作「野獣死すべし」と同様の怨念を感じたんです。

 このエントリには「野獣死すべし」で表現されている、動的で暴風のような憎悪はありません。静的で内向きです。ただ、現状への不満や理想の渇望が、わけがわからないくらいにねじ曲がり、堆積・集積して、怨念となっている様子が表現されているという部分で違いがありません。

 ただね、怨念が向かう方向がなんでこうも違ってきてしまったんだろうと思うわけです。「野獣死すべし」の主人公は怨念から生まれた破壊衝動を外へ外へと吐き出して、結局自滅してしまうんだけども、なんかポジティブなんですよね。いい意味で欲望を叶えようともがいている。 
 一方で、このエントリーでは、自分が受け取れなかった、あるいは未来も受け取れないあろう恩恵を想像して、それを受け取れなくした現実や受け取ることができた人を恨みに思う姿が描かれています。そう、酷薄な現実という物語に対して消費者として相対していて、主人公になろうという意思を見せていないのです。なんでそんなにネガティブなのかわかりません。これが最近の世の中の空気感なんでしょうか。

 同じ怨念でも、表現方法が昔と今では違ってしまったという話。